昭和天皇の手相
8年前の春、南九州に点在する旧陸海軍航空隊の特攻基地跡を撮り歩いたことがある。敗戦の年の春から夏にかけて、絶望的な戦況の中で確たる展望もないまま幾千もの若い命が飛び立って行ったところだ。
東京に戻り、天皇の写真を撮ろうと思い、4月29日、一般参賀の列に並んだ。この日、昭和天皇は80歳の誕生日を迎えていた。
出来上がった写真はフレームいっぱいに全身が入るくらいのサイズで、あまり満足のいくものではなかった。ただ子細に写真を見ると、ふりあげた右手の掌にかすかに手相が見えるではないか。これならば、もう少し長いレンズを用意し、広場の最前列から狙ってみれば、手相もはっきり分かる写真が撮れると思い立った。
別段私は手相に凝っているわけでも、占いのたぐいを信じているわけでもない。むしろ胡散臭く思っているのだが、このときだけは天皇の手相という考えに興味を引かれたのである。
実際に撮影に出かけたのは2年後、1983年4月29日。装備はモータードライブをつけたカメラに、400ミリの望遠レンズ。このレンズの焦点距離をのばすアタッチメント、1.4倍と2倍のエクステンダーを使って、合成1120ミリの超望遠レンズとして使おうという作戦だ。できれば大きな超望遠レンズを持ちこみたいのだが、一般客にまじってのフリーランスのカメラマンには三脚も立てられず、前記の装備が最善と思われた。
天皇の一度目のご挨拶が終わり、参賀の人びとが入れかわるときに最前列の位置を確保した。ところがお立ち台のあるベランダには防弾ガラスが張りめぐらされていて、前に行けば行くほど空の光を反射して、中が見ずらくなってしまう。そこで、広場後方の、森影がガラスに映って空の反射がなくなる場所で、しかも天皇に一番近い位置を確保しなければならない。うまい具合にアルミのカメラケースが役に立った。約60センチのケースの上にあがると、天皇のふる右手はようやく空の反射のなくなる位置に入ったのだ。
警備の警察官は不思議そうな目で見ていたが、おとがめはなかった。うしろに並んでいた人たちには申しわけなかったのだが、2,3回目のご挨拶のたびに、ケースの上から撮影した。約1200ミリのレンズの手持ち撮影だから、画面はずいぶん揺れ動いている。フィルムの感度を上げて、1000分の1秒のシャターを切る。
横位置のフレームで、顔がほぼ天地いっぱい、小刻みにふられる右手が横画面にぴたりとおさまった。私と天皇までの距離は約15メートル。できあがった写真には、天皇の手相もハッキリと写っていた。
実はこの写真、その後ずっと手元にあったのだが、今回のご逝去を契機に、思いきって手相を見てもらうことにした。
某私鉄ターミナル駅。午後7時。5人並んだ手相見の中から、「ずばり当たる最善の道」という看板にひかれて、年配の男性に見てもらうことにした。
掌の部分だけをトリミングし、ほぼ等倍に拡大した写真を、誰の手だとはいわずに差し出した。結果は、「自分の意志の赴くところ堂々と粘っていく、立派な運命線が出ていますね」というのがまず第一。性格は「自信のあること、気乗りのすることに対してはぐいぐいと押していく。正義感の強い。好き嫌いの激しい人ではありませんか」。 結婚線を見ると 「表面的にはうまくいっているようにみえるが、お互いに不満があったのでは」 と読んでいる。
「この方は最近なくなったのです」 と私がいうと、霊の研究では丹波哲郎よりくわしいというその人は 「この方は四次元の中間ぐらいに行っています。霊の世界では四次元の上に五次元、最高位が六次元。ここには明治天皇がおられ、昭和天皇もここへ行かれるのですよ」 と話が進んだ。実は……と私が手相の持ち主を明かすと、ちょっと驚いたようだったが 「数年後には六次元に行かれるでしょうが、手相からは六次元へ直行はされない。気持ちは潔白でも潜在意識に罪悪感があり、それを修正するのに数年かかります」 というのが彼の結論だった。
もう一軒、「この場所に30年」 というキャッチフレーズの男性にも見てもらった。「慎重、合理的な努力家です。体力はあまりないが、こつこつと慎重にやってきて長寿を保っていらっしゃる。ただ運命線に切れ目があり、26,7歳の頃に混乱があったのではないか」 とまずまずの見立てだ。指の関節の長さのバランスからは、知識、忍耐、感情のうち「知」がやや長く、頭の良い人だと説明してくれた。
そういえば、あるいは……と考えられなくもないが、本当のところは皆目わからない。百人の占い師にみてもらったらば、百通りの見立てがなされるのかもしれないのだが、この二人の占い師が共通していったのは、運命線の長さ、力強さだった。
昭和20年、南九州の飛行場から飛び立つとき、特攻機の上からちぎれるようにふっていた若者たちの掌に刻まれていた運命線は、はたして何を物語っていたのだろうか。
「文藝春秋」 1989年4月号
この文章は1989年1月に昭和天皇が亡くなった時に月刊「文藝春秋」誌の依頼で書いたものです。それは不思議なご縁でした。この年の3月に、写真が僕で文章が井上章一さんで「ノスタルジック・アイドル二宮金次郎」という本を出版しました。二宮金次郎像をめぐる謎解きの本です。その制作過程で井上さんに「昭和天皇の手相」の話をしていたらば、「文藝春秋」のデスク平尾隆弘氏に伝わり、昭和天皇が亡くなったと同時に巻頭エッセイとして原稿依頼があったのです。
実はこの写真は、本文にも書きましたが長い間、日の目を見ていませんでした。
1983年当時、新潮社の「FOCUS」や講談社の「FRIDAY」など写真週刊誌が隆盛の時期に、僕が当時よく仕事をしていた朝日新聞社出版局の「週刊朝日」にも「アクショングラビア」なる、まぁどちらかというとスキャンダラスな写真ページがありました。 そこに「こんなのはどうでしょう?写真だからこそできるものだと思うのですが」と出版写真部に売り込んだところ、窓口になってくれたデスクは「面白いね、やってみなさい」と言って、機材を揃えてくれて貸し出してくれました。当時僕はニコンを使っていたのでキヤノンの機材は一つも持っていなかったのですが、キヤノンのコンパクトで使いやすそうな組み合わせ一式を借りることができました。
思ったよりもうまくいき意気揚々と写真部に行ったのですが、実際に「アクショングラビア」を担当していた別のデスクは「こんな畏れ多いものを出すわけにはいかない」と、まぁジャーナリストとは思えない対応で却下されました。それでも没原稿料として何万円かいただきましたが、悔しかったですね。
翌年2月、全く別の機会に「青梅マラソン」の撮影をしていて、「この大人数の最後の走者はどうなんだろう?」との疑問を持ちました。関係者、警察車両の長い列を従えた最終走者が、幸いなるかな?僕の目の前でリタイアするシーンを撮ることができて、これを「FOCUS」誌に持ち込んだらば御採用。その時に「何か面白い写真はないですか?」と問われて「昭和天皇の手相」の話をしたらば「それは面白い、4月の天皇誕生日にぶつけてやりましょう」と決定したのです。ネガを預けて4月下旬を待ったのですが 、「使えませんでした」 という詫び状と没原稿料が送られてきました。
そんな経過があって、保守的といわれる「文藝春秋」から声がかかったのは不思議でした。気合いを入れて原稿を書き、発行となると、今度は「週刊文春」が後追いで写真を載せてくれました。ようやくまともな写真原稿料をいただいたわけです。
そして、驚いたことにその年の暮れには「日本エッセイスト・クラブ」編の「90年版ベストエッセイ集」の68編の一つに選ばれ、そうそうたる筆者の片隅に名を連ねたのです。
思えばこの年には、当時よく仕事をしていた自動車雑誌の関係で「プレス対抗ジムカーナ」(曲がりくねったコースでスピードを競う競技)で、並みいる自動車評論家数十名と競い、2位になったことがあります。「車の運転特性がどうのこうの、ハンドリングがどうの...」と 常々言っている”評論家”を差し置いて、ただのカメラマンが2位でしたから、痛快でした。
カメラマンだけでなく、ジャンルを超えて
いろいろなことをさせていただきました。楽しい想い出です。